神霊館 榎本書店の成り立ち

御重宝(大正8年・平成21年版)
ノッポの武芸者宗次郎

当店初代の榎本宗次郎はもともと紀州の下級藩士でした。

当時の藩主、徳川茂承(もちつぐ)の御駕籠周りは、御陸尺(おろくしゃく−御駕籠かき)を含め周りを固める藩士達も、皆六尺(約182cm)以上の背丈の者で揃えられておりました。生来の長身と多少習い覚えた剣術の技とが相まって、宗次郎はその隊士の一員として召し抱えられました。長州征伐の苦労談など、かなりの尾ひれがつきながらも長らく語り継がれております。

宗次郎 暦の版権を得る さて、戊辰戦争の後、新政府に恭順の意を表して京都に滞在する藩主の御供として、宗次郎も明治維新前後の頃は京都におりましたが、その折かねてより興味を抱いていた暦の出版権を当時の大経師(だいきょうじ)から得ることが出来ました。維新の混乱期、版権という制度も確立していなかった頃とて、実際には買い取る必要もなかったものらしく、『間の抜けた武家の商法』と周りからは大いに笑われたということです。ただし本人は、暦の出版と言うものを、なかなか格調ある仕事と考えてご満悦でありました。とにもかくにも、微力ながらここで暦の神霊館の土台が出来上がりました。 高島嘉右衛門先生と運勢暦

明治2年、旧藩主の和歌山県知事就任を機に、宗次郎は大阪にとどまり、いよいよ暦の出版に取りかかりますが、それもまだ軌道に乗らぬ明治5年、それまでの旧暦が新暦に改められました。それも12月3日を新暦明治6年1月1日とするという、暮れも押し迫った時期であり、それがために、始めたばかりの仕事は大きな損害を被り、早くも挫折してしまいました。いったん出版をやめた宗次郎は「やはり武家の商法はあかんなぁ、田舎へ引きこもってまた剣術でもやるか。」と思案しておりましたところ、平素から懇意にしていた実業家であり、暦学者でもあった高島嘉右衛門先生から、それまで暦日が主体であった暦に易学の要素を組み入れて「運勢暦」を作ってはどうか、という大変有意義なアドバイスと御指導を受けました。これによって現在の暦の原型が誕生しました。

高島易断本部編纂というのは、この高島嘉右衛門先生が考案された形式の暦であるという意味の表記です。

二代目 松の助、三代目 進一郎、現在

二代目松の助の代に至り、本を出来るだけ安価に庶民の娯楽として提供する事をモットーに、暦のほかにも、浄瑠璃歌本、講談本、各種実用書を、また日清・日露戦争期には世界地図の出版なども『榎本法令館』の屋号で手掛けて参りました。月刊誌「平民之友」は当時広く愛読された刊行物です。
大正期に入り、上記の暦や娯楽書に加えて数々の絵本やヒット漫画を出版しました。これらは三代目進一郎に受け継がれ、ポケット漫画やベビー漫画として充実し、「赤本」の別名で第2次大戦前後を通じて子供達に長く親しまれました。


現在、屋号を『神霊館榎本書店』とし、暦専門の出版社として変わらず大阪の地で営業を続けております。


※なお、当店が採用しております古法二十七宿は、寺社諸行事には必須の暦法であり、易学上も大切なものとされております。このため、全国のお寺様、神社様、また、暦学、易学の専門家の方々から長年変わらぬ御愛顧をいただいております。